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「文化の木」とは

国家は「ここに住みたい」という人々の願いを叶えるための装置である。

近代国家は、この装置の一類型であり、暴力や通貨発行権、外交権の独占は、近代国家を維持するための一手段に過ぎない。この諸手段の調整のために官僚制が敷かれるが、諸手段や官僚制は、自己目的化して増幅する。人権は、この強大な権力から、生活者としての自主性を守る抗弁を標準化したものであり、人権を担保するために裁判権や立法権を独立させてきた。ここにおいて、伝統的な人権と権力との対立構造が発見される。

しかし、この対立構造に嵌った世界観は、国家の本義に、人々の願いに目を向けないので、将来に向けた装置の創造に関して聾唖である。人々の願いに回帰し、あるべき装置を純化すると、自主性、共存性、持続性の鼎立が見出される。

近代国家日本は、誕生から百五十年を経て、自主性に乏しい状態に陥っている。すなわち、住民に疎外感を抱かせ、統治の不全に至る様相を呈している。この状態を許せば、一旦緩急ある秋、近代国家日本は愚か、共同体日本そのものが消散する恐れがある。しかし、無闇に創造される自主性は、ブルジョワジーの妄想になりがちで、域外への配慮を欠いたものであり、ついには住民の生活すら侵害するであろう。二度の大戦を経た我々が創造するべき物語は、ナショナリズムという単純なものではなく、より緻密に、域内の少数派や域外への共存性に思いを致すもので、なおかつ百年後も持続するものでなければ、先人に対しても、子孫に対しても面目が立たない。

「文化の木」は、物語の鼎立を恢復させるために、地域自治を推進する構想である。他者との共存性と調和する自主性を喚起し、百年後も安定するような国家を樹てるには、国家の物語が文化として住民の生活に根差し、地域共同体に受容され、地域政府を支えるものでなければならない。その上で醸成された国家に対する信頼感が、危急存亡の秋に国民の力を結集し、あるいは諸国民と連携する素地になると考えるのだ。